(その3)に続いてさらに抜粋。この本の最後の抜粋になります。訳すのが大変だったのでしょうか。日本語として読みにくい文章になっていますね。でも、なんとか意味はわかります。
p321
ネガティブなものを創り出しているのはマインドの力です。その力は、ポジティブなものを創り出すために使われたときの方が強くなります。なぜなら、ネガティブなものには葛藤、相反する願望、力を弱める方向への意志が常にあるからです。ポジティブで拡大的な方向へ進む場合には、そうである必要はありません。いったん転換が行なわれれば、マインドに「ピンと来る」ものがあるはずです。
意識は全体から自らを切り離せば切り離すほど、すなわち分割された断片になるほど、大きな構造を創り出します。しかし、全体としての意識は構造化されたものではありません。それはまったき至福のうちにある状態です。分裂が起きると、迷える意識は徐々に自己意識の状態に向かいます。その状態は、ネガティビティや破壊の混沌から身を守るために構造を必要とします。ですから、ネガティビティに直面してそれを取り除いたとき、構造化されていない喜びに満ちた意識を取り戻せるのです。
制限をもったエゴは、存在が自らの破壊的創造から身を守るための構造です。それは破壊的な衝動を抑制しているのです。意識が至福と真実のうちに拡大するときにのみ、その構造は取り除かれます。ですから、進化のある点においては、あなたは混沌とした構造化されていない状態だったわけです。成長し進化するにつれて、構造化によってこの混沌を排除するにいたります。なぜなら、そうすれば少なくとも一時的にせよ意識は内なる混沌から守られるからです。
そのとき、思考のプロセスを利用して、ネガティブな創造や限定的な構造化からの出口を明らかにできます。構造物を超えて混沌を覗き込み、それを理解し、絶えず利用できるマインドのプロセスの力に気づくと、下降曲線を上向きにできるのです。すなわち、生命、愛、喜び、幸福を否定し、腐敗、浪費、痛みを求める方法をいつも探してしまう傾向を反転させることができるわけです。一切のままでいる宇宙的自己の部分は、痛みとは一時的なものであり、かつ幻想であることを知っています。しかし、混沌のうちにある部分はそのことを知らず、傷ついているのです。
p337
内奥で空虚に出会うために、あなたはマインドを空っぽにします。すると驚いたことに、空虚はすぐさま、それまで慣れていたのとはまったく違って感じられるようになります。マインドが人工的に創りだした古い充実感に妨げられていた、新しい活気を含むようになるのです。実際自分を「詰め込みすぎて」いたために、人工的に鈍感になっていたのにすぐにも気づくでしょう。すなわち、マインドが音をたてているせいで、それに自分を詰め込んでしまったり、防御上の難題にエネルギーを集中させてチャネルに自己を詰め込んでしまったりしていたのです。このような人工的な充実によって、活気を殺していたわけです。こうして、あなたはいっそう貧しくなりました。なぜなら、内なる生命がなければ、本当の意味で満たされはしないからです。外界から充実を得ようと努力したとき、悪循環は生まれました。まずは内面に充実をもたらすために必要なステップを踏むのを避けてしまったからです。
ある意味、あなたは空虚よりも活気を恐れています。それに直面した方がよいでしょう。自分を十分に空っぽにしたとき、まずやってくる反応は内なる活気です。するとあなたは、またすぐにでも、ふたをしっかりと閉じてしまいがちです。けれども、恐怖を否定すると、本当は活気がないことに強い不満を感じているのも否定することになります。ところが活気の欠如は、活気を恐れることによって生じるのです。自己を創造的に空っぽにするとき、恐怖は活気に道をゆずるでしょう。
肉体やエネルギーも含めた内なる存在全体を、躍動する活気に満ちた「内なる管」として、あなたは体験するでしょう。エネルギーはその管を通り抜け、感情もその管を通り抜けます。そうして、今のところ名状しがたい“あるもの”が、活き活きと表面化します。もしあなたが、その名づけることのできない“あるもの”から尻込みしないなら、それは絶えまない内なる教えであることが遅かれ早かれわかります。すなわちそれは、特に人生の今に向けられた真実、励まし、知恵、導きなどであって、それは最も必要な場面でやってくるとわかるのです。先に述べた空虚、すなわち躍動する活気に満ちた空虚とは、あなたへの神の語らいです。一日のうちにいつでも、あなたが最も必要としているときにそれは語りかけています。本気でそれに同調し耳を傾けようとするなら、それを識別できます。最初はぼんやりとですが、後にははっきりわかります。それに気づけるように、内なる耳を慣らす必要があります。知恵と愛に基づいて、一般的にではなく自分にとって具体的に語りかける活き活きとした声に気づき始めると、その声は内面にすでに存在していたのだけど聞かないように自己を条件づけてきたのだとわかるでしょう。そのような条件付けによって「内なる管」を締めつけ、詰まらせてしまっていたのです。その管は、本来、活き活きとした天使の音楽であなたを満たしてくれるはずなのですが。
「天使の音楽」とは言っても、必ずしも文字どおりのことを意味しているわけではありません。もちろん、文字どおりの音楽もあるかもしれませんが、もっと必要なのは、置かれた状況でどのような意見や態度をとるべきか決めなければならないときの導きでしょう。そのような教えは、栄光においては本当に天使の音楽にも等しいものです。この充実の驚くべきさまは、言いあらわすことができません。それは、すべての言葉を超えた宝物です。それは、あなたが絶えず求め憧れているものです。しかし、あなたはほとんどいつも、自分がそれを探していること自体にも気づかずにいて、外側からもたらされるのを期待している代替的な充実にそれを投影しています。
すでに内面に存在しているものに集中してください。マインドや外的な意志は、人生を混乱させて複雑にしてきました。ですから、この新たな交流を持つと、迷路からの出口を見つけ出したように感じられるでしょう――その迷路は、自分で創り出していたものなのですが…。こうして、迷路のない、新たな風景を内面にふたたび創造できるわけです。
p345
内なる声:ガイドによる瞑想
静かにして内なる自己に耳を傾ければ、その声を聞くでしょう。それはさまざまに語りかけます。
私は永遠に愛する神であり
永遠に存在する創造者
あなたのうちに生き
あなたを通して働いて
あなたとして、無数の形で表現する―――
あなたとして、そしてあなたとして、そしてあなたとして―――
動物として
樹木として、空として、大空として
存在するあらゆるものとして
私はあなたのうちに住むことにしよう
そしてもし、あなたを通して行動し
あなたの知力によって知られ
あなたの感情によって感じられるのを許されるなら
あなたは無限なる私の力を経験することだろう
あらゆる次元にあらわれるこの力を
あなたは恐れない
この力は偉大であるが、私に身をまかせなさい
この力に身をまかせなさい
押し寄せるこの流れに身をまかせなさい
そうすれば、あなたは泣くだろう
あなたは笑うだろう
どちらにしても喜びのゆえに
あなたは私であり、私はあなただから
あなたという存在の助けがなければ
私はこのレベルでは働けない
もし私に耳を傾けてくれるなら
道の一歩一歩を導いてあげよう
暗闇にあるときはいつも
あなたは私から離れている
そのことを覚えているなら
私のもとに帰るべく歩みだせるだろう
私は遠くにはいない
私はまさにここに、あなたの存在のすべての粒子に存在している
私の意志を満たしてくれるなら
あなたと私は一つになり
私はあなたの意志を満たすことができるのだ
【完】