リアリティ・トランサーフィン 第4巻(その4)

(その3)の続きです。太字原文ママです。
トランサーフィンシリーズ最後の抜粋になります。
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p281
では、なぜはしゃぐことが魂に必要なのか。たぶん朗らかなのは良いことだからだろう。では、なぜ良いことなのか。それはつまりユーモアや朗らかさは重要性を引き下げてくれるからだ。意図のエネルギーを遮断して世界の鏡を歪めてしまうような過剰ポテンシャルを持ったままでは、リアリティを操縦することはできない。
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p286
スライドを自分と一線を画したところにある映画作品として見てはならない。あなたはイメージ上の出来事の中にいなくてはいけない。目的を達成したあなたは、何に従事し、何を感じ、どのように自分を捉え、何に取り囲まれていて、何が起こっているだろうか。スライドの中心にいるあなたは、やってみようと思うことのすべてができるとイメージする。これは技法ではなく、またここには厳格な規則など何もない。すべて好きなようにやってみよう。法則はひとつ。あなたは世界の鏡の前に立っており、現実において受け取りたい形(イメージ)を頭のなかでかたちづくる、ということだ。
目的を持ったスライドは、バリアントの流れのベクトルを定める。もしそのスライドを思考上で定期的に再生すると、事象と状況の流れは目的へと向けられる。道を進みはじめたばかりのあなたにとっては、必ずしも明確なプランを持っていなくてよいし、目的がどのように現実化されるのかを知っているわけでもない。手段について考えてはならない。必要なときに、必要な扉―――具体的な道やチャンス―――が開かれ、あなたはそれらを目にする。目的が達せられる方法について、過酷な条件を設定してはならない。あなたが行うべきなのは、最終的な結果に意識を集中させることだ。
目的を持ったスライドのほかに、プロセスの視覚化がある。これも「トランサーフィン・シリーズ」の第二巻で述べた。あなたが目的へと続く道の途中にいる、つまり目的がどのようにして実現されるはずかをすでに知っていて、そのために物質的世界でなすべきことをすべて実行しているとき、プロセスは視覚化によって促進され得る。この場合の法則はこうだ。私のことに関しては、ただただ万事順調であり、今日はすべてのことを昨日よりももっとうまく行い、明日は今日よりずっと良い日になるだろう。これはバリアントの流れに従って水をオールで漕ぐ仕事といえる。だが、大事なのは、やはりバリアントの流れの方向である。もしあなたが頭のなかに目的を持ったスライドを維持していれば、すべての状況は目的の達成を目指して動くことになる。
スライドの再生は、いつでも、何度でもよい。もしあなたが本当に自分の目的を達成しようとするつもりならば、スライドの再生は一日に半時間でもよいから必ず行うべきだ。
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p291
次なる方法は、舞台装置の導入である。あなたの脳裏に浮かんでくるありとあらゆる考えについて、あなたの目的との共通点を見つけるようにしよう。通常、勝手気ままな思考の数々であっても、互いに絡み合い、論理の列になっているものだ。目的を持ったスライドの何らかの断片によって論理の鎖を完成させよう。ただ時々は、あなたが結局のところ何を志向しているのかについて思い出そう。たとえあなたが何を考えていようと、また何をしていようと、自分の注意を目的に戻そう。スライドを背景を飾る挿絵にし、あなたはそれぞれの事象や情報単位をスライドの文脈のなかで受け入れなくてはならない。そうなると、自分の世界の層をこの上なく効率的に形成することになり、あなたの意図は現実化されていくことだろう。
目的に近づきつつあるあなたを待ち受けるものに応じて、取り巻く状況も導くことができる。たとえば、あなたが公園を散歩していて、頭のなかでスライドを再生しているとしよう。スライドの中身は、あなたが自宅の前で庭いじりをしているというものだ。周囲にある芝生や木々を、このスライドのプリズムを通して眺めてみよう。光景が変わる―――舞台装置が新たなニュアンスを帯びる―――ことを感じるだろう。この効果は、周囲の状況にスライドをあてがって眺めた結果、引き起こされたものだ。両目は物質的現実を見ている一方で、意識の一部は、バリアントの空間におけるあなたの未来の庭があるセクターに固定されている。現在のリアリティをあなたが目的とするセクターに変えるという、ある種の変換作業が行われている。こうした瞬間、あなたの思考イメージを物質化するプロセスは最も活発に行われている。
あなたがのんきで心地よく感じ、世界があなたを気遣ってくれていた子供の頃にいるようにして、さらに思い出してみよう。当時のあなたは、世界が気遣っていたことを認識していなかった。あなたにとってはまったく心地よいばかりだった。しかし、時間が経つにつれて、あなたはだだをこねたり、不満を表したりすることが多くなり、そのために世界はあなたに対して冷たい態度を取るようになっていった。子供の頃の穏やかな気分や居心地のよさを連想させてくれるのは何だろうか。こうした連想は、そこに居ると快適で安心できる舞台装置を導くための手がかりになり得る。時々、昔の頃の心地よくて気楽な状態を思い起こそう。すると、あなたの世界は徐々にまたあの愛想よくて快適なものになってくるだろう。
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p292
では、特にものぐさな人のための最後の方法―――目的を持ったアマルガム―――を述べておこう。視覚化が成功するための主な条件は、それを行うよう自分に強いてはいけないということである。頭のなかで目的を持ったスライドを再生したものの、それが自分に喜びをもたらさないため、無理やり実行せざるを得ない場合、過剰ポテンシャルが発生する。その結果、平衡力がせっかくのあなたの仕事をすべて水の泡にしてしまうだろう。こうした場合、気が滅入るような義務を放棄し、すべての仕事をあなたの世界に代わってもらうほうがよい。「手を貸して」と世界に頼み、あなたの選択したものが現実化されるよう、世界自らが世話を焼いてくれるようにしよう。
すべては私に無断で片がつく。こんな方針を自分に示そう。このような意図を宣言すると、あなたは自分の世界にプログラムを課すことになるが、それに従って事象は、あなたが目的へ近づくよう、ひとりでに展開していく。あなたは握りしめているものを放し、外的意図が目的を現実化させるのを容認することになる。これからはくつろいだ状態で、目的を持ったスライドを思い切って満喫することができるのだ。もうこれ以上スライドを用いて仕事をしなくてもよい。それはあなたの世界の役目なのだ。世界の手のひらのなかに居座りながら、あなたが世界から受け取ろうと期待しているものを、時々世界に念を押すことだけは忘れないでもらいたい。そして、もちろん、現実を忘れて架空の世界に腰を据えたりしてはならず、物質面で目標達成のためにあなたに求められていることのすべてを成し遂げてしまおう。
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p296
規則性というのは、成功の主要条件である。自分の思考によってこれほど簡単に自分のリアリティを形成する能力があるとは信じられないと思われるかもしれない。では、あなたはこれまでにたとえ一ヶ月でよいから、自分の思考を目的へ向けることを定期的に意識して行ってみたことがあるだろうか。おそらく試したことはないだろう。あなたは自分の思考を成り行き任せに放置しておくことに慣れきっている。そのような思考は形のはっきりしない塊となって空中で散り散りになるため、実感できる成果が出ない。ところが、悪い予感、すなわちあなたを不安にさせることで思考全体を占拠するものだけは、本当に的中するのだ。
(中略)
仮に、今日、あなたは意気込んで、しかも十分集中して視覚化に取り組んだとしよう。すると、翌日には、リアリティに何か普通でないことが起きていると気づくだろう。たとえば、一日のうちであなたは、何人かのただならない外見をした人々―――きわめて背が高い人、奇妙な服装をまとった人、不格好な人―――などと出会うかもしれない。つまらないことで言い争いが起きたときに人々が示す説明しがたい苛立たしさも、あなたの注意を引くかもしれない。あるいは、夢のなかでのような不思議な何かが起こることもあり得る。
これは次のように説明がつく。通常の状態にあるあなたの世界の層は、バリアントの流れに従って空間を進んでいる。つまり、最小限のエネルギー消費で済む軌道を進んでいるわけである。けれども、あなたが集中的に視覚化に取り組んだことで、軌道は直線化し、目的に向かう最短ルートを進みだした。集束された思考エネルギーは、あなた専用のリアリティを、正常な流れから外れたところにある、バリアントの空間の過渡領域へ連れて行こうとしているのだ。過渡領域ではすべてが最適且つ合理的にできているわけではない。そこはトランジット・ゾーンである。不自然なシナリオや舞台装置を持っているため、多くのエネルギー消費を必要とすることから、通常は夢の中しか遭遇しない、あるいは、まれにしか現実化しない領域なのだ。
あなたの思考エネルギーはリアリティに力強く作用し、リアリティは、攪乱された水面のように乱れる。あなたは水面の波紋に驚かなくなって久しい。だが、これからはリアリティの波紋という驚くべきものがあなたを待ち受けている。目にするかもしれない異常は偶然によるものであり、そんな日の人々の苛立たしさはどこか磁気嵐と関係があり、奇妙な外見をした人々とは時々出くわすことがあるに過ぎない、というわけでもないのだ。あなたの世界の層がトランジット・ゾーンを通過するとき、いつもと違う現実があなたの世界の層に入りこんでくる。リアリティの波紋は、まさに集中的に視覚化を実践した後に現れる。百聞は一見に如かずである。きわめて印象深いものなのだ。
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p299
ある日、私は女性読者からお便りをいただいた。そこには実践についての基本的な考え方が図らずも書かれてあった。「私はトランサーフィンの技法を十分に理解したわけではありませんが、それでも人生に対する私の姿勢を変えてからというもの、何事も調子よく行き、もっと良くなるだろうという確信めいた感覚が生まれました。本当に、もうすべてがうまく行くだろうと思います」
あなたはこれまで述べてきた方法をすっかり忘れてしまうかもしれないが、もし自分のなかに一体的な感覚を維持することができれば、それで十分であろう。「私に関するすべてが順調で素晴らしい」というフレーズに従って意図を統合すると、普遍化された成功の形(イメージ)を作りだし、その形(イメージ)が現実生活にも反映されることになる。
そんなわけで、あなたの可能性はあなたの意図によってのみ制限されることになる。自分のリアリティを支配しよう!
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p301
自分の生き方を、無意識に見る夢から、操縦可能な意識して見る夢へと変えるには、どうすればよいのか。
簡単なことをひとつ理解しておく必要がある。この世界にはあなたがいて、があるということだ。あなたが鏡による反映に心を奪われているうちは、鏡の環の内側に居続ける。そこで起きていることのすべてが、あなたとは関係なく起きている。あなたの人生とは、自分でルールを決めたのではないコンピューター・ゲームのようなものだ。もちろんゲーム内で起きていることに、あなたが何らかの影響を与えようと試みるのは許されている。だが、あなたからは大事なことが奪われている。それはゲームから抜け出すことができないということだ。
ところで、あなたを閉じ込めておくのはただひとつ―――釘付け状態のあなたの注意力なのだ。あなたは鏡の環の内側から抜け出すことができる。鏡の環の内側は無意識での夢見であり、鏡の環の外側は意識して見る夢である。リアリティは鏡の環の内側だろうと外側だろうと同じである。なにしろ鏡とは二元鏡のことなのだから。しかし、あそこ―――鏡の環の内側―――では、リアリティを操っているのはあなたではなく、リアリティがあなたを操っている。あそこでのあなたは、鏡に手で触れることで鏡に映しだされる姿を変えられるという幻想に支配されている。けれども、それが可能なのは、内的意図が外的意図に変わる外側でだけなのだ。鏡の外側に出るためには、注意を反映から形(イメージ)へと切り替える必要がある。自分が鏡の前に立っていることを認識したあなたは、自分の思考の形(イメージ)に従ってリアリティを形成する能力を得る。
幻想から解放されたあなたは、鏡の第五法則に従って、思考が推移する方向を変える、すなわち「欲しないこと」から「欲すること」へ、「気に入らないこと」から「気に入ること」へ、病気から健康へ、手段から最終目的へ、というように切り替えなければならない。もし自分をしばらく観察してみると、あなたは至るところで状況と妥協せざるを得なくなったり、避けられないと思われることに屈するしかなかったりしているのだ。あなたには見ている夢をそのまま受動的に受け入れる癖が身についている。あるいは、あなたは出来事に抵抗し、自分のシナリオを貫き、バリアントの流れと闘おうとするのがせいぜいである。必要なのは自分の態度―――鏡の前での形(イメージ)―――を変えることだけなのだ。そうすればあなたはゲームの虜でいることをやめ、ゲームはあなたの外であなたの意志に沿って展開し始める。あなたはサイコロゲームの得点計算用の小玉から、サイコロを振る人に変わる。
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p302
さあ、これからは新たな決まりを実践しよう。それは、もしあなたから見て不都合と思われる事態に遭遇したとしても、それを受け入れ、運がいいと宣言すべきだ、ということである。もしまた鏡の環の内側に入り込むのが嫌なら、この決まりを実行しなくてはならない。思考が推移する方向を変えるだけでは不十分であり、このほかに、理性のコントロールをシナリオの作成からそのダイナミックな修正へと切り替えることが不可欠だ。あなたが鏡の第六法則と第七法則を守っているうちは、自分の世界の主なのである。
もし迫りくる事象が理性の理解を超えている場合、通常、理性は抵抗する。今後はすべて逆さまでなくてはならない。シナリオとの食い違いについて理性が不満を漏らしたら、その都度、強く身震いし、待ってましたとばかりにその食い違いを受け入れよう。万事順調に行くのだから。
道の始まりではまだ何も明らかになっていないから、手段について心配する必要はない、という考え方を理性はどうしても甘受することができない。理性自身、目的がどのようにして実現されるのか考えている自分にふと気づくのが毎度のことであり、ありとあらゆるネガティブなシナリオを思い浮かべてしまうのだ。だから、理性にはこう言ってあげたくなる。「覚えとけよ、おバカさん、それはお前が心配することじゃない!お前の仕事は最終目的に注意を集中しておくことだろ!」
思ったことを実現させないようにしているのは、人々自身なのだ。理性は願望を推し測りながら、いつも先回りして事象の展開に関する模範的な計画を立てる。人間の思考はそんなふうにできている。そこで、迫り来る出来事がシナリオに入っていないと、何も成果がないという印象を受ける。本当はすべてがうまく行っているのに!ところが、型通りに考える癖がついている理性は自分のシナリオに変更を加えたくないことから、人はすべてを台無しにするよう行動し始めるのだ。
ここにこそ逆説がある。注文が現実化されるには、事象がどのように展開しなければならないかを、誰も知ることはできない。しかし、それでも人が自分の知っていることに固執すると、その結果、すべての努力は無駄になってしまう。あなたの夢が達成しがたいように思われるのはなぜかというと、あなたがパターンに支配されていて、単に夢を実現させようとしないからだ。あなたの扉は固定観念で施錠されているのだ。
頭のなかで望ましい形(イメージ)―――目的―――を作った後、ただ単に目的の方向へ足を運ぶだけでよい。何があろうと、すべてはあなたの注文を執行するために行われているのだ。「すべてうまく行く。なぜなら私がそう決めたからだ」という支配者の意図を持とう。「私は自分の世界のなかで好きなように命ずる。私はもう状況に支配されることはなく、状況を操ろうともしない。頭のなかで目的を持ったスライドを再生することで、私は、状況を作りあげるのではなく、そこで暮らそうと意図している世界の最終的な光景を作りあげる。出来事に影響を与えようとする試みは、自分のシナリオに固執する理性の内的意図による働きである。理性は、目的へと続く道で何が待ち受けているかを知ることができない。状況は外的意図とバリアントの流れによって形成される。私のやるべきことは、流れのベクトルを指定することであり、流れがどんな軌道を描いて展開しようが一向に構わない」
想像してみよう。ある日、鏡の夢のなかであなたは目覚める。周囲では何かが起こっている。いつもの出来事であり舞台装置であるのだが、すべてが違って見える。まるで事象の流れから抜け出し、巨大な球面鏡の真ん中に出てしまったかのようなのだ。途方もなく大仕掛けの万華鏡が、リアリティとの境界を輝かせながら、あなたの周りをゆっくりと回っている。あなたはこのリアリティの一部であると同時に、別個に独立して存在している。これとまったく同様に。通常の夢のなかであなたが目覚め、今や夢は自分の思うままであって、夢の言いなりにはならないとわかったとき、あなたは自分自身の「独立性」を認識する。覚醒状態での鏡の夢見でも、すべてまったく同じだが、唯一違うのは、現実がそんなに速くは反応しない点である。だが、現実がゆっくりと反応することに慣れるや否や、驚愕すべきこと―――あなたの思考の形(イメージ)に反応したリアリティの滑らかな変化―――が起こり始める。これはどうしたものか?いったいあなたはどこにいるのか?
あなたはこの世界の外にいる。あなたは鏡の環から抜け出たのだ。
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p309
アイデアもコンセプトもすべてはあの永遠性のなかから引っぱり出してくればいい―――本、絵、旋律といったすべてのものがバリアントの空間から「引き出される」。セクターを「引っ掴む」ことが必要だ。旋律にとっての手がかりとなるのは、二、三の特徴的な和音である。絵にとっては気分、本にとっては状況である。本を執筆するには、話の筋を考え出すことがどうしても必要というわけではなく、後で気がつくと、話の筋ができあがっていたということもある。もしうぬぼれの強い理性を抑え、主人公たちが陥っている事態から自分で脱出できるようにしてやると、筋の全容が現れてくる。思いつく必要はない。あそこにすでにあるのだ。ただバリアントの流れに穏やかに従うだけである。なにしろあらゆる天才的なものは意外なほど呆気なく創られたわけなのだ。バリアントの流れは、通常、人が思いつくことのできないような、まさにこうした思いのほか簡単なやり方に向かう。
コンピューター・プログラムの記述や技術機器の開発でさえ、どこかを出発点として始めることで、このようにして計画なしで行うことが可能だ。もちろん計画なしには済まされないケースもあるが、部分的にでも計画なしで済むところは、バリアントの流れに従う―――コンセプトがひとりでに育つようにする―――ことが必要である。事前にすべての計画を立てようとする理性は、ややこしい仕組みをごてごて書き込む。一方、バリアントの流れはこの上なく優雅で最適な解決策をいつも示してくれる。そのため、綿密に作成された青写真もなしに、どうしたらすべてがこれほど円滑に運んだのかと、後になって舌を巻くしかなくなるのだ。
そんなわけで、考え出すのではなく、ただ最初から最後まで順を追って進みながら、仕事に携わればよいのだ。何ごとにおいても出発点となるのはアイデアであり、これが大事なのであって、残るすべてのことはバリアントの流れがやり遂げてくれる。アイデアも考え出すには及ばない。では、それはいったいどこからもたらされるのか。そう、すべてはあそこからだ。あらゆる天才的な洞察は永遠性のなかに存在し続け、魂を介して理性に届く。理性の役割は、アイデアを考えだすことではなく、アイデアそのものが不意に舞い降りてきたときに、それを吟味・識別することだ。もし隊列を離れ、心の命じるままにわが道を進むならば、必ずアイデアは舞い降りるだろう。
魂はバリアントの空間へ直接出入りし、理性は、漠然とした推測やひらめきを捉えては、それらを解釈する。理性は知らないが、魂は知っている。魂に問いかけることだけが必要なのだ。この軽薄そうにも思われる主張に全幅の信頼を置いてよいのだ。妨げになるのは、ここでもやはり、法則をはっきり認識せず、中途半端に通じているケースである。魂が何でも知っているらしいことにはおそらく皆が同意してくれるだろうが、誰もそれに正面から向き合おうとしない。それはたとえ話だとみなし、誰もが避けて通り、意義を与えないのだ。良識はこう論じる。「もちろんひらめきもある、内なる声や直観もある。だが、そういったものは不安定で、不明瞭で、信頼が置けない。動かしがたい事実に基づく私の堅固な論理の方が遥かにましだ」
そうはいっても、もしあなたがある分野の基礎的な情報を持っているのであれば、魂はバリアントの空間の然るべき分野に同調し、これまでどこにも書いてなかった新たな知をそこから受け取ることが可能なのだ。自分自身に質問を出してみよう。質問は明確な内容とし、しばらくそのことを忘れておこう。数日後、答えは自分でやってくる。もし答えがやってこないのなら、同じ質問を時々繰り返してみよう。たぶん数か月後には答えが届くだろう。答えは必ず届く。
要は、深く根を下ろしている固定観念を打ち壊し、広く通用している規範に屈している状態から抜け出す―――振り子の決まりを破る―――決意が十分なものかどうか、ということに尽きる。思い切って知への自分のアクセス権を行使し、質問への答えを他人の書いた本のなかから見つけようとするのをやめるべきだ。意図の方向を「探すのでなく、創り上げる」へと変えるだけのことだ。あなたが読んでいる本の著者たちとあなたとの違いはどこにあるのか。本の著者たちは意図の方向を変えた―――探すのをやめ、創りあげることに取り掛かった―――という点だけだ。彼らは評判の高い権力者たちの言いなりになることをやめ、思い切って自分の道を歩みだしたのだ。あなたも本来の姿になる権利を手にしてみよう。
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【完】

(追記)ヴァジム・ゼランドさんの新刊『タフティ・ザ・プリーステス』も早速読みました。おもしろかったです!トランサーフィンシリーズのようにこの世界の仕組みをくどくど説明するような内容ではなく、自分の思い通りの現実を体験するにはどうすればいいかに焦点を絞って書かれているので、とても実践的です。トランサーフィン用語、例えば“振り子”、“平衡力”、“過剰ポテンシャル”などは出てこないですが、同じ世界観を違う側面から説明しているので、よりトランサーフィンシリーズの理解が深まりました。とてもオススメです!こちらの本もいつかまとめたいと思っています。