身体とはなんでしょうか?
私たちは当たり前のように「これは自分の身体である」という有機体を認識していて、その身体の中に「自分がいる」という感覚があります。これはとても不思議なことです。
誰しも生まれて初めて立った時、初めて歩いた時、きっとその新鮮な感覚に感激したことでしょう。だから幼い子どもはあんなに動き回ったり叫んだり走ったり・・身体の感覚そのものを楽しんでいるのでしょう。「自分が身体の中にいてそれを動かしている」という感覚が面白くてしかたがないのだと思います。
こうやって子どもたちは身体を動かしてその感覚を感じることによって、この世界、つまり物理的な空間について学んでいきます。同時に、「自分の身体とはこういうものだ」というイメージを形成していきます。
しかし、その過程で自分の身体イメージが歪んでしまうこともあります。この認知の歪みが「心身症」の要因の一つであるとも考えられています。
ユング派心理学者の老松克博氏はその著書で「心身症」を、心と身体という二本に分かれた幹を持つ大木の、地下にあって見えない、共通の根っこの障害であると述べています。この“共通の根っこ”は、心と身体の背後に存在しています。例えば、拒食症の患者さんには、「自分は太っていて醜い」という身体イメージの歪みがあることが指摘されていますが、実際の物理的な身体は痛々しいほど痩せこけている場合が多いです。それでも「自分は太っている」というイメージは、本人にとってはリアルな確信を伴う真実なのです。本人の「身体イメージ」と「物理的な身体」の背後にある共通の場所、老松氏はこれを「サトルボディ」と呼び、「イマジネーションを通して経験されるからだ」、あるいは「イマジネーションでできたからだ」と定義し、単に身体が想像されただけのものではないとしています。
老松氏のいう「サトルボディ」は、ヨーガの「サトルボディ(微細な身体)」の概念から言葉を借りたものです。
ヨーガの「サトルボディ(微細な身体)」は、8世紀のインドの哲学者、アディ・シャンカラが定義した概念です。シャンカラは人間の身体を、「粗大な身体」であるグロスボディ(gross body)、「微細な身体」であるサトルボディ(subtle body)、「原因の身体」であるコーザルボディ(causal body)の3つに分類しました。目に見える肉体は、粗い物質からできているという意味で「グロスボディ(粗大な身体)」と呼ばれます。そのグロスボディを支え、エネルギーを供給しているのが「サトルボディ(微細体)」です。また、これらのグロスボディとサトルボディを大きく包むように存在しているのが「コーザルボディ(原因の身体)」です。
これら3つのうち、気功でいうところの“気”、ヨーガでいうところの“プラーナ”という目に見えない生命エネルギーが働いている領域が「サトルボディ(微細な身体)」です。ヨーガの考え方では、ここにナディやチャクラといったエネルギーの通路や器官もあるとされています。
また「サトルボディ(微細な身体)」と、ウィニコットの定義した「中間領域」という概念の共通性も指摘されています。ウィニコットは対象関係学派の精神科医です。ウィニコットの理論を簡潔に説明すると、例えば、小学生になっても自分が赤ちゃんの頃に使っていた毛布がないと眠れないという子がいます。このボロボロになった古い毛布はその子にとって、ただの毛布ではありません。ウィニコットは、この毛布のような、乳児が母親との分離不安を和らげるための物理的な愛着対象を「移行対象」と呼び、これは単なるモノではなく、乳児にとって非常に大きな心理的価値を持つものであると述べています。この魔術的効果のある「移行対象」は、心的現実性と外的現実性の「中間領域」にあり、成長後の乳児の対象恒常性の形成を助ける作用をもたらします。またウィニコットはこの「中間領域」を、「外的な経験の源にもなり内的な経験の源にもなる時空」と定義しています。
また、ユング派心理学者の河合隼雄氏は「心身症」について、心が原因で体がその結果である、あるいはその逆である、というような短絡的因果関係を認めるべきではないとして、心と身体の基盤となっているものとしてのより高次な実在、つまり、心と身体の両者を超える性質のものが存在していると述べています。そして、「心身症」はこの高次な実在の状態が普通でないために心身の症状として反映されているのではないかと考察しています。この高次な実在を河合氏は「たましい」と呼んでいますが、「サトルボディ(微細な身体)」に対応する概念とも考えられます。
プロセス指向心理学のアーノルド・ミンデルは、1982年の初めての著書『ドリームボディ―自己(セルフ)を明らかにする身体』で、人間の存在の深層にあり、「夢」と「身体症状」を結びつけている高次の存在を「ドリームボディ」と定義しました。ただし、この「ドリームボディ」の概念は変遷し、現在では、時間・空間・重さのある人間同士が共有できる現実としての「合意的現実」の深層に、「ドリームランド」と「エッセンス」という概念をおいています。「ドリームランド」は、例えば夢のような、他人同士は共有できなくても本人だけは認知できる領域です。つまり、医学的には定量化できないけれど、本人は主観的経験として認知できる世界です。この「ドリームボディ」や「ドリームランド」と「サトルボディ(微細な身体)」も非常に近い概念だと思います。さらに深層の「エッセンス」は認知もできない段階ですが、これは、上記のシャンカラの分類の「コーザルボディ(原因の身体)」に近い概念と言えます。
認知することも不可能な「エッセンス」や「コーザルボディ(原因の身体)」は、ユングのいう「元型」そのものに対応していると思われますが、ここは認知しようがないので今のところどうしようもないです。一説によると、明晰さを深めて行けばその領域にも影響を及ぼすことができるそうですが、ここでは掘り下げないことにします。
ヨーガや気功、その他古くからある伝統的なボディワークは「サトルボディ(微細な身体)」に働きかけるものです。また様々な心理療法が上手く行った場合、それは「サトルボディ」への働きかけが上手くいったということだと思います。
私はヨーガにはまる以前、様々な心理療法を学んできましたが、「サトルボディ(微細な身体)」という概念をベースに考えると、私の追求してきたテーマ、これからも追求していくテーマはずっとつながっていることに気づかされます。
「身体とは何か」「自分の身体だと思っているものは一体何なのか」ということです。
以下に私が以前書いた論文の要約だけを載せておきます。ちょっと文章が固くて読みづらいかもしれませんが、癒されるとはどういうことか、ということを「サトルボディ(微細な身体)」へのアプローチという視点で考察し、一応結論を出しています。これからも、この結論に磨きをかけて深めていきたいと思っています。