(その2)に続いてさらに抜粋。太字原文ママです。
p270
瞑想の力学や意義やプロセスを真に理解してそこから最大の利益を引き出すには、いくつかの心の法則を明確にしなければなりません。その法則の一つは、瞑想が真に効果的である場合には、人格の基本的な三層が積極的にかかわっているというものです。
この人格の基本的な三つのレベルを次のように呼んでもよいでしょう。
1.意識的な知識や意志のすべてを持った意識的なエゴのレベル
2.全能であることを無視して、破壊しながらも、それを主張している利己的で無意識的な子供のレベル
3.卓越した知恵や力や愛を持ちつつ、人生の出来事を包括的に理解している超意識的な宇宙的自己のレベル
効果的な瞑想では、意識的なエゴは、無意識で利己的な破壊的自己と、超意識的で卓越した宇宙的自己との両方の働きを活発にします。この三つのレベルで絶えず相互作用が為されなければならないのですが、その際、意識的なエゴの自己にはかなりの慎重さが要求されます。
意識的なエゴは、無意識の利己的な自己が自らを開示し、発展し、意識にあらわれ、自己表現するのを許すという決心をしなければなりません。
(中略)
人間が、利己的で不合理な、全く破壊的な部分が内面の意識にはっきりとあらわれるのを許し、その細かい特徴のひとつひとつまで認識するなら、それは自己受容と成長の重要な証です。それだけでも、その人の意識が気づいていない危険で間接的な現実化を防げます。意識が気づけないのは、それと結びつけられていないからであって、結果として望ましくない結果は外界からやってくるように思われるのです。
ですから、意識的なエゴは深層へと降りてゆき、こう言わなければならないのです。「自分のうちにあるもの、自分について知るべきことで隠れているもの、そこにあるネガティビティや破壊性は、すべて明るみに出すべきである。虚栄心がどれほど傷つこうともそれを見たいし、見ることにコミットする。苦境に陥ったとき、どれほど自分の役割からことさら目を背けようとし、人の過ちに意識を集中しすぎているかに気づきたいと思う」
これが瞑想への一つの方向です。
もう一つの方向は、意識的自己の限界を超える力を持つ、高次の宇宙的自己に向けられたものでなければなりません。この高次の力は、小さな破壊的自己をさらけ出して抵抗を克服するためにも求めるべきです。エゴの意志だけではそれは成しとげられないかもしれませんが、エゴは意識的に自己決定できるのですから、高次の力に助けを求められるし、求めなければならないのです。
(中略)
この相互作用は三層になっています。まずは観察者としてのエゴが相互作用を求め、ネガティブな側面に触れてそれをさらけ出すことにコミットしなければなりません。同時にエゴは、宇宙的自己の助けを求める必要があります。そして、子供が姿をあらわしたら、エゴは、さらなるワークをするために「意識を強化してください」と宇宙的自己にもう一度助けを求めなければなりません。そのワークとは、根底的な誤解とそのために払っている大きな代償とを探求することです。もしあなたが許すなら、宇宙的自己は破壊的衝動にたびたび屈してしまう誘惑を克服する手助けをしてくれます。このような誘惑への屈服は、必ずしも行動にあらわれるとはかぎらず、感情的な態度にあらわれます。
p279
ここで、生命のあるところには絶えず運動があることを思い起こすのが重要です。運動は一時的に麻痺している時でさえ存在しているのであって、物質も生命の原料が麻痺したものです。体内で凍結したエネルギーの塊は、一時的に堅くなって動かなくなった生命の原料です。この生命の原料はいつでもふたたび動かせますが、それができるのは意識だけです。
(中略)
瞑想は何よりも、すでに意識的で実際に動いている自己の部分が、滞ったエネルギーをふたたび動かそうとして、霞んだ意識をふたたびはっきりしたものにしようとすることなのです。そのための最善の方法は何よりも、凍りついて霞んでいる意識に自己表現させることです。そのとき、「表面化するのは破壊的で破滅的なものだ」などという反応をするのではなく、すべてを受け入れる態度をとる必要があります。
(中略)
何度も述べてきたように、優しさや確固たる態度や深い決心を持って自己の破壊性に向き合うことが必要です。これは逆説的なのです。すなわち、破壊性と同一化しなければならないのですが、同時にそれと距離をとらなければならないわけです。
p287
自己のうちで三者間の相互作用が働くとき、常に調和的な融合が為されています。すなわち、欲と無欲との、関与と超然との、そして、能動性と受動性との融合があるのです。このバランスが安定した状態になるとき、破壊的な子供は成長します。子供は殺されるわけでも、消滅するわけでもありません。追い払われるのでもありません。その凍りついた力がとけ、活き活きとしたエネルギーに変化するのであって、あなたはそれを生きた力として感じることでしょう。子供を殺してはなりません。救済され、解き放たれて、成長できるように導いてやるべきなのです。
p290
自律的な意識としてあらわされているにせよエネルギーとしてあらわされているにせよ、宇宙の生命原理の基本的特徴の一つは自発的であるということです。骨の折れるプロセスや、束縛された、過度に集中した状態にあると、姿をあらわしてはくれません。それがあらわれる際には、努力は常に間接的な要因でしかありません。努力が必要なのは、自己の真実を見て、特定の幻想を手放し、破壊的ではなく建設的になろうとするのを阻んでいる障害を克服するためであって、よい気分になるのを約束する自己実現という名の、言葉倒れのプロセスのためではないのです。 生命の創造的プロセスに建設的に参加したいと真摯に望みながら、内面の真実を見るための一つひとつのステップを踏めば、自己は解き放たれます。そのプロセスは意識的な意志によるものではありません。体内の未知のもの、自律的なもの、つまり不随意的なプロセスを恐れるほど、自己のうちの自発的な生命原理を体験できなくなります。
生命原理は、個人的な問題を解決したり創造的な才能を育てたりする際に、かつては想像すらできなかった知恵としてあらわれるかもしれません。生を活き活きと経験する新たな方法となるかもしれません。すなわち、人が行なうことや見るものすべてに新たな趣を与えるかもしれないのです。生命原理は常に安全であり、裏切られることのない正当な希望を与えつづけてくれます。この新しい生の経験は恐怖を一切含みませんし、努力や強制によって生み出されるものでもありません。不随意なプロセスというエゴの直接的な支配が及ばない「内なるメカニズム」を恐れないでいる程度に正確に応じて、その経験はもたらされるのです。
(中略)
子供時代に個人的に経験した人格的困難は、後に内的な問題や誤解の原因となりますが、結局のところ、それよりもはるかにこの非常に深い実存的葛藤からあらゆる心理的問題が生じているのです。すべての生命はこの基本的な葛藤を解決すべく動いています。しかし、その解決が為されるには、まず個人の神経症的な葛藤が見つけ出され、理解されなければなりません。
(中略)
あらゆる性格的欠点を取り除くには、絶望したり欠点を否定したりすることに陥らずに、それを完全に認めて客観的に観察しなければならないのです。本来この態度こそが、何よりも効果的に欠点を永久に取り除いてくれます。そのときはじめて、エゴと宇宙的意識とのあいだの実存的葛藤を認識できるようになるのです。
p297
みなさんのほとんどが真の自己を探し求めている場所に、これをどのように適用したらよいのでしょうか。自分の意識のさまざまな層を見ていただきたいと思います。以前には意識していなかった要素を意識し、結果としてその要素の間違った反映を修正するのにどれだけ成功できるかに応じて、内なる宇宙の生命原理の現実に近づいていくことができます。すると、宇宙の生命原理はより自由に姿をあらわすようになり、あなたも恐怖や羞恥心や偏見からますます自由になります。最終的には自己を開いて、その原理を自由に使えるにいたります。勇気をふるって自己の裸の真実を直視すればするほど、より大きく、安全で、喜びに満ちた内なる生命と結びつくのがやさしくなることを、誰もが確信できるでしょう。そして、あらゆる不安や葛藤を取り除いてくれるものと強く結びつくほど、それまでは内面に存在していることなど知らなかった安心や行動力を感じられるでしょう。そこには力の作用があり、エネルギーの作用があります。知力の作用があって、あらゆる葛藤を解消し、一見解決不可能な問題に解決策を与えてくれます。実際的な日常生活で「もし」とか「でも」などという言い訳もしなくなりますが、それは外的な魔法の手段を使うからではなく、出来事のすべてを、自己の必要不可欠な部分として扱う能力が高まっていくからです。その上、本来値すべき喜びを体験する能力も大きく発達します。今まで宇宙の生命と自己とを切り離してきた人ほど、このような生き方に憧れることでしょう。
p300
つまり、本当の感情が裸のままであからさまに思われるので、偽りの感情を創り出すわけです。この偽造はふつう、無意識的な最深部の自己のみが知っている防護服のようなものです。この「防護服」のせいで、生の鮮やかさや活気は感じられなくなります。このような模造物は、あなたとあなたの生命の中心との間に遮蔽物を築いてしまいます。すると、現実とも切り離されることになります。
(中略)
奇妙な羞恥心をおぼえたり真の自己が暴露されるよりも、消えてなくなってしまったほうがましに思われるときもあります。けれども、この羞恥心に気づいたとき、それを取るに足りないものとして押しやったりしないなら、非常に大きな一歩を踏み出したことになります。この恥を感じることが、絶望や欲求不満の原因となる麻痺を見つける鍵となるのです。なぜなら、羞恥心は特定の種類の自己疎外や分離にいたるものだからです。その感情は論理的な言語では表現できません。経験しその性質を味わってはじめて、本物と偽物との区別ができるからです。模造の感情はしばしば微妙であり非常に深く浸透しているので、第二の本性になってしまっています。ですから、発見したものに対する鑑識眼を持ちたいと思う必要があると同時に、きわめて敏感にそれを解放し、ありのままの自己でいて、ありのままに感じる必要があるのです。
p303
生命と感情は一つなのであって、仮にどちらかが一時的に不活性状態にあったとしても、一方があるところには必ずもう一方が存在します。それを知っていれば、内面を探求して「どこで感じないと決めてしまったのだろう」と問うことができます。感じるのを恐れていることにしっかりと気づいた瞬間に、感情がないことを恐れなくなります。そのとき、理性を用いて環境を現実的かつ合理的に評価することをとおし、感情をふたたび活性化できるのです。
(その4)へ続く