以下は以前書いた論文の前書きです。
ヨーガで癒されるとき、サトルボディ(微細な身体)に何が起こっているのかを考察してみました。
本論文は、「ヨーガとは何か」というテーマについて論じるにあたり、心理療法としてのヨーガという枠組みからヨーガを考察するものである。
前半はインドにおけるヨーガの歴史を概観した。ヨーガは古くはインダス文明に存在しており、外来のアーリア系ではなく土着のインド人自身により実践されていたものが、ヒンドゥイズムの時代になってバラモン正統派のなかに組入れられた可能性が高い。バラモン正統派のなかで初めて明確なヨーガの哲学の体系化が行われたのは、六派哲学の古典ヨーガ学派によってであり、「ラージャ・ヨーガ」と呼ばれている。古典ヨーガ学派は、その思想的背景、基盤となる世界観(現状認識)を、サーンキャ学派の哲学に負っている。サーンキャ哲学は、この世界は「真我(プルシャ)」と「自性(プラクリティ)」から成ると考える“二元論的多元論”であり、古典ヨーガ学派の根本経典『ヨーガ・スートラ』はこの哲学に基づいている。その後8世紀に、ヴェーダーンタ学派から出た哲学者のアディ・シャンカラは、原因を必要とせず存立するところのブラフマン(梵)と、アートマン(真我)は同一であるという主張に基づく梵我一如の“不二一元論”を説いた。この哲学は仏教の「空」の思想の影響を強く受けており、シャンカラは、仏教哲学をヴェーダーンタ哲学に吸収する役割を担った。これ以降、ヨーガは一元論的傾向を濃厚に帯びていった。その流れから肉体を肯定するヨーガが生まれ、13世紀のゴーラクシャによって大成されたのが、「ハタ・ヨーガ」と呼ばれるヨーガである。
心理療法としてのヨーガを考察する際、シャンカラの“不二一元論”に基づく「微細な身体」という概念に特に注目した。「微細な身体」とは、心と身体の背後にある共有領域である。「微細な身体」へのアプローチという視点から、様々な心理療法とヨーガの実践の共通点を探っていくと、「エネルギーと表象の再連結」というテーマが浮かび上がった。この「エネルギー」とは、ヨーガにおいては「クンダリニー」であり、心理学においては「リビドー」にあたるもので、身体の内部で生じ、主観的に感じられるが概念化できない何らかの感覚である。この「エネルギー」に適切な「表象」を再連結させることによって、治療あるいはヨーガの実践が成功するのである。
適切な「表象」とは単なる静止した“記号”ではなく、より流動的なものであり、「連結させること」は自我によって恣意的な名前をつけるという簡単な作業ではない。適切な「表象」とは、「エネルギー」自身が知っているものであり、自我はその声に耳を傾けなくてはならない。これは自我と自己、意識と無意識の共同作業であり、「無為にして為す」という東洋の教えに一致している。ユング(1980)の言葉を借りれば、「無意識に内在する力がそれ自身でおのずから自己展開してくる過程に対して、意識が身をゆだねることを意味する」ということになるだろう。これはヨーガのプロセスそのものでもある。
クンダリニー・ヨーガの象徴を心理学的に言い換えるならば、「眠っているクンダリニー」は「抑圧されたエネルギー」であり、「クンダリニーがシヴァと切り離されること」は「表象と切り離されること」つまり「抑圧されること」である。そして「クンダリニーが目覚めること」とは「抑圧していたエネルギーに気づくこと」であり、「クンダリニーが上昇してシヴァと再会すること」は「エネルギーが表象と再連結すること」である。その時に癒しが起こり、対立する概念である永遠と時空、そして自分とかつて自分であったものが結合するのである。