【日々の気づきメモ】時間とは何か(2)~時間=動き?

私の大好きな童話『モモ 』では、この世界の時間が止まり、主人公のモモだけが動ける、という状況が以下のように描写されています。


P369
用心ぶかくモモはひとあしまえに出てみました。ほんとうにいつもとかわらずらくに動けます。テーブルにはまだ朝ごはんののこりがそのままになっていました。モモはいすに腰かけてみましたが、いすのつめものはまるで大理石のようにかたくなっていて、押してもへこみません。カップにはチョコレートがひと口ぶんほどのこっていますが、カップはいくら力を入れてももうもちあがりません。モモは中に指をつっこんでみました。でもチョコレートはガラスのようにカチカチです。はちみつもどうようでした。おさらの上のパンくずでさえ、びくともしないのです。どんな小さなものも、時間のなくなったいまは、もう動かせないのです。


ここを読んで、個人的にはちょっと衝撃をうけました。

そうか、時間が止まった世界っていうのは、
おいしいパンやとろけるはちみつの食感、ふかふかのクッションの触感を味わえないんだ~!!!

当たり前のことですが、時間が流れているからこそ、
味や匂いや音や歯ごたえや舌触りやあたたかさやフカフカ感や・・・
いろんな感覚が味わえるんだ!と改めて気づきました。
時間が流れるって、なんて素敵なことなんでしょう。

時間=動き?
時間=感じること?
時間=生きること?

ほんとうに時間が流れていて、世界が動いているってことはありがたいことなんだなぁ・・と考えさせられます。
時間があるからこそ、この世界を味わえるんですね。

以下の、時間が流れている時のおいしそうな描写と比べてみるとわかりやすいです。


P218
テーブルの上には、ずんぐりした形のポットと、二つの小さなコーヒーカップとおさら、それにスプーンとナイフがならんでいました。どれもこれも、ピカピカの金でできています。小さなかごには金褐色にパリッと焼けたパン、小さなボウルには金色のバター、もうひとつのボウルには金の液体のように見えるはちみつ。マイスター・ホラはずんぐりしたポットから両方のカップにチョコレートをついでから、身ぶりよろしく食事をすすめました。
「どうぞ、小さなお客さん、たくさん召し上がれ。」
モモは食事にとびつきました。飲めるチョコレートがあるなんて、ちっとも知りませんでした。バターとはちみつをぬったパンだって、これまでの生活では、めったにないごちそうの部類に入っていました。それにしても、こんなにおいしいパンには、いまだかつてありついたことがありません。はじめのうち、この食事にすっかり没頭して、ほかのことはなにひとつ考えず、夢中で口につめこみました。ふしぎなことに、食べるにつれてつかれもだんだん消えてゆき、昨夜は一睡もしていなかったのに、すっかりさわやかな、元気な気分になりました。食べれば食べるほど、ますますおいしくなってきます。一日じゅう食べつづけていられそうなほどです。


P354
テーブルには、またこのあいだのように、小さな金のカップと、そのほかいずれも金にかがやく朝食がならんでいました。湯気のたつチョコレートのポット、はちみつ、バター、パリパリに焼けたパンです。
モモはこれまでにもしょっちゅうこのすてきな食事を思いだしては、もう一度たべたいものだとつばをのみこんでいたものですから、すぐに口にほおばりはじめました。このまえのときより、もっとおいしい気がします。


例えば、クッションのフカフカ感を味わう時、何が起こっているか細かく見てみると、まずクッションの布地に触り始める瞬間があって、そこから内側にへこみはじめ、ある程度へこんだところで手を放すと、またクッションは反発し始め最終的に元に戻る。。。その時間の流れの中にモフッ!という感じを味わえます。
つまり、何かを味わう時には常に“動き”があって、そこには始まりと終わりがあり、それが必ずセットになっているということ。
時間には始まりと終わりがあり、だからこそ味わいがあるということ。

時間のある世界では、出会いがあれば必ず別れがあり、生きているということは必ず死ぬということになります。
よく“死”は最も偉大な“師”であると言われますが、つい目を背けたくなる“死”と共に生きることができれば、本当にいきいきとした“生”を味わえるのでしょう。
そこには始まりと終わりと内包した“今”の動きそのものしかありません。
“今”にいられないのは、恐怖に包まれている時です。過去に対する後悔や未来への不安、それは“自分”というエゴのアイデンティティが脅かされる恐怖で、あらゆる恐怖は最終的には死の恐怖につながると言われています。

“今”にいられない時間=灰色の男たちに盗まれている時間=死を恐れている時間
ということなのかもしれません。