【実験日記】スピ系メソッドで騒音問題を解決できるか(13)

前回(12)の続きです。

だいぶ時間が空いてしまいましたが、騒音問題はまだ解決していません。
更新が滞っていた理由の一つは、母が昨年の秋から入院して、生活のリズムが変わってしまったからです。
そして、今年の4月26日に母は亡くなりました。
その後、私は不合理な罪悪感に取りつかれました。「母が死んだのは私のせいかもしれない」という、割とよくある不合理な思考の一つです。
以前、母がしんどいの記事にも少し書きましたが、騒音問題を掘り下げていくと、母親に行き着きます。
私にとって騒音とは、プライベートな自分の居場所に土足で無慈悲に侵入してくる恐ろしいものです。
それはまさに、私にとっては母親だったんです。

ここ数年、騒音に悩まされてから、私は騒音主の死を毎日願っていました。
交通事故で一家全員死亡などというニュースを見ると、必ず場所を確認し、
「もしかして上階の騒音家族じゃない??、だったらいいなぁ・・
なんだ、ちがうのか・・どうして罪もない人たちが死んで、上階の無神経で非常識な奴らはのうのうと生きてるんだろう??」
というふうにです。かなり追い詰められていましたから。
騒音主の死を願うということは、結局、同じエネルギーである母の死を願っていたことになるのではないか、などと考えて落ち込みました。

母は入院してからだんだん弱って筋力がなくなり、歩けなくなり、立てなくなり、食べれなくなり、飲み込めなくなり、話せなくなり、最後は呼吸ができなくなり、死んでしまいました。
母はもう途中で生きる気力をなくしてしまったようで、リハビリも嫌がり、食事もとらず、テレビや他の娯楽にも興味を示さず、何か生きていて楽しみがあるんだろうか・・と、こちらまで絶望感が伝わってきて、見ていていたたまれなくなっていました。
私はずっと、これは私のせいなの? 騒音主(=母のエネルギー)に恨みを抱いているからなの?・・と感じていたので、
もう赦さなくちゃ・・と“ゆるし”に関する本を読み漁っていたところでした。
でも、「ゆるせた!!」となる前に、母は逝ってしまいました。
間に合わなかったか・・私のせいか・・という具合に、母の死後、罪悪感が膨れ上がりました。
それに騒音に悩まされるずっと前から、母との関係にわだかまりがなくなって、いつか“普通”の母娘のように笑いあって話したりできる日が来ればいいな・・と夢見ていたのに、そのいつかは二度とやってこないと気づいて、愕然としました。
いろんな意味で「間に合わなかった!」という罪悪感に襲われました。

こんな風に特定の感情に包まれてどうしようもなくなった時は、とにかく感じきって味わい尽くすしかないんだよね、と思い出し、ひたすら気持ちをありのままに感じるエクササイズをしました。
私が「罪悪感」という名前をつけていた感情は、実際は傷ついた感じだったり、悲しい気持ちだったり、爆発するような怒り、孤独感やさみしさ、いろんな気持ちがまじりあっていたエネルギーでした。ひとつひとつすべての気持ち、その存在にそれでいいよ、そのままでいていいよ、と歓迎してエネルギーを味わいました。

そうするとだんだん思考の方も変わってきて、「別に間に合わなかったわけじゃない、私も母もこういう関係性をやってみたくて、こういう感情も味わってみたくて親子になったんだ・・それに死んだら終わりじゃないんだからまだまだ母との関係は続いていくしね」と自然と思えてきて、最終的には「結局起こることはすべて完璧だったんだ!」と考えられるようになりました。さらに、母との思い出で、すごく楽しかったことやありがたいなと感じたことも少しずつ思い出してきました。

いやほんと記憶ってあいまいですよね。自分がその時信じている思考にしたがって、記憶は封じ込められたり改ざんされたりしてしまうということは、いろんな実験のデータで明らかになっているのですが、それでも自分自身の思考を疑ってみるというのは難しいです。
例えば「子どもの頃、母には一度も抱っこしてもらった記憶がない」という思考を信じてしまっていると、本当にそれがゆるぎない真実に思えて、母に抱っこしてもらって微笑み合っている幼い頃の写真を見ても、気づかないんです。私は母の死後、昔の写真を見返して、そういう幸せな瞬間の写真をたくさん見つけて「こんな写真あったっけ?!」とびっくりしました。

うつ病に効果が高い認知行動療法は、そういう歪んだ自動思考を見つけて修正していく作業をします。
以前ご紹介したバイロン・ケイティも、思考を徹底的に疑うことで多くの人の人生を変えています。
スピ系の引き寄せの法則の基本も、ネガティブな感情を認めて、その感情を引き起こしている思考をポジティブなものに変えていくことです。
ホ・オポノポノはそれを「記憶を消去する」と表現していて、セドナ・メソッドは質問して歪んだ思考を「手放す」テクニックです。
瞑想やマインドフルネス、非二元とかアドヴァイタも、すごくざっくり言ってしまえば、思考にとらわれない状態を目指していると思います。

それぞれの療法やメソッドで上手く行く人もいれば行かない人もいます。
私個人の感覚では上手く行かない時は、どこかに抵抗がある時です。
それは怒りや罪悪感を感じることを反射的によくないことだと拒否して、自分でも気づかないレベルで抑圧してしまう時です。
やはり“今”起こっている気持ちを完全に徹底的にありのまま受け入れて、その存在を認めることがすごく大切な気がします。
それができてから初めて冷静に自分の思考を見ることができます。
自分と自分の思考にそこでやっと少し距離ができて、思考が何を言っているのかちゃんと気づけるようになります。

なので私は、どんな思考が起ころうと、それによってどんな感情が起ころうと、とにかくまず感情の方に焦点を定めて、その存在を認めて味わうことにしました。落ち着いて余裕が出てきてもすぐに思考を修正しようとせず、思考の存在も認めました。ネガティブな思考は修正して治さなきゃ。。と焦ってもそこに抵抗が生まれて上手く行かないことが多いからです。

そんな作業ができないほど落ち込みや怒りが激しいときは、ひたすら“慈悲の瞑想”をしました。
これ、何故かすごく効きます。すぐに身体がじわっとあたたかくなって安心感がきます。

それを繰り返すうちに、だいぶ罪悪感が落ち着いてきたので、中断していた“ゆるし”の実践を再開しました。
母に対してではなく、騒音主に対してのゆるしです。
今となっては、母には感謝や愛を自然と感じることができますが、騒音主は相変わらず死んでほしいと思っていて、とてもじゃないけど現在進行形で毎日ドカドカやってくる相手をゆるす気になんてなれませんから。

(続く)